【小橋賢児の半生③】1990年代の芸能界は独特の華やかな魔力があった

先日開催された「ULTRA JAPAN」(主催:Avex)。3日間で12万人の来場者を熱狂させたダンスミュージックフェスを、5年前からクリエイティブディレクター(現在はクリエイティブアドバイザー)として関わってきたのが小橋賢児だ。その名に聞き覚えのある人はかなりいるだろうが、彼のどの顔を知っているかは人によりバラバラではないか。 俳優、映画監督、イベントプロデュース……。時期によって注目される側面が次々と変わっていく、まさにマルチな活動ぶりだ。いまや特定の領域に閉じこもってばかりいては、先が拓けない時代。 ジャンルを軽やかに跳び越えていく者だけが、真に革新的なことを為し得る。それを見事に体現する小橋賢児が自身の半生を語る。


芸能界で売れれば売れるほど自分の個性が消えていくのを感じた

出演していたドラマ『人間失格』で俳優としての人気に火がついて、それはもちろんありがたいことだったけれど、自分が本当に望んだ状況だったかといえばそうじゃなかった。

そもそも僕は俳優の仕事をしながら同時に、中学時代から出入りしていた原宿のアクセサリー店でアルバイトを続けていたし、古着などをフリーマーケットで売るなんてこともよくしていた。それで10代のうちは片足を、いや8割方は、ストリートに足を突っ込んでいた。役者の仕事なんて、『人間失格』以前はそんなになかったし。

だから、将来は芸能人になって成功するぞとか、スターになりたい! ということを、目標に据えていたわけじゃなかった。『人間失格』のオーディションだって、じつは危うくキャンセルするところだったんだ。

その日はかなり予定が押していたみたいで、オーディションの開始時刻が2、3時間はうしろにずれると現場で聞かされた。僕はオーディションのあと、当時好きだった人と初めてデートというか、遊びに行く予定をようやく取り付けていて、遅れるわけにはいかなかった。

迷わず事務所に電話をした。オーディション、これじゃ受けられないと。様子を聞くから折り返し電話をするよう諭され数分後にかけると、プロデューサーからそれならいいよ、来なくてもと言われたとのこと。それじゃハナからいらない、計算に入れてないと思われていたみたいじゃないか。ムッときて、なんだそれ、やっぱりやってやる、見返してやるよ! そう思い直してちゃんとオーディションを受け、無事に合格した。

あとからマネージャーに聞いてみると、本当はプロデューサーにそんなこと言われていなかったという。僕の性格を見越して、けしかければムキになって自分でやると言い出すだろうからと。まんまと踊らされてしまった(笑)。

そうして出演はできることになったけれど、最初はチョイ役だった。でも回を経るごとに少しずつ注目してもらえるようになり、脚本の野島伸司さんにも直接声をかけてもらえて、出番とセリフは多くなっていった。ある日プロデューサーから大役を与えるぞと伝えられ、自分がストーリーの核になる回まで放映されることに。

そうなると急に「あの子、だれ?」と話題になる。取材なんかも入るようになって、周囲の反応が変わっていった。でも僕には自覚も実感もないから、前と変わらず原宿のアクセサリーショップでバイトしたり、フリマで古着などを売ったりもしていた。と、知らず仕事場に人だかりができたり、竹下通りを歩いていたらたくさんの人に追われて逃げまどったりする羽目に。 

岩井俊二さんのドラマに出たのをきっかけに、演じることのおもしろさには目覚めていたから、仕事自体にはワクワクしていたし、何であれ新しい世界に触れられるのはうれしかった。でも、これまで当たり前のようにしてきた行動が縛りを受けてしまうのは、とにかくイヤだった。

とはいえ、僕が原宿の行くとショップの仕事にならなかったりするんじゃしょうがない。慣れ親しんでいた世界からだんだん足が遠のいて、同時にどんどん忙しくもなるから、芸能界に両足とも浸かるしかなくなっていった。

ひとつの仕事に打ち込むのは、決して悪いことじゃない。ただ、僕が芸能界に浸かり切ることには、構造的な問題というか矛盾もあったんだと思う。というのも僕が俳優として芽が出たのは、かなり異質な存在だったことが要因だと考えられるから。

オーディションを受けにいけば、他の子役はたいていステージママっぽい人がついていたりするものだったけど、共働き家庭で育った僕は当時からいつもひとりで行動していたし、ファッションもストリート系でとにかく目立った。いや、ほとんど浮いていたと言ったほうがいいのかもしれない。

人間は過去の蓄積でできているものだから、それまでの10数年をあまり普通じゃない生活スタイルで通してきたことで、僕には他の子役志望の人たちとは違ったある種の個性が備わっていたんだと思う。その異質な個性が売りになって芸能界で名が出始めると、これまでの僕の生活パターンは続けられなくなってくる。バイト先に顔を出せないといった物理的な理由もあるし、自分でも行動に制約を設けるようになっていったりもした。

芸能人としてはこういうことをしてはいけないな、知らないところにひとりで行ったりするのはよくないかな、素性のわからない人と付き合うのは具合が悪いんじゃないか、というように自分で自分をセーブするようになっていった。事務所に言われるというのもあったけれど、それ以前に自己規制するようになってしまったんだ。これじゃ自分を際立たせてくれた個性が消えてしまう。僕は芸能界で売れれば売れるほど、売れた要因の個性を失くしていくという悪循環にはまり込んでいたのだ。

当時の芸能界には、独特の華やかな魔力があって、すごく魅力的だったことも事実だ。ときは1990年代。それ以前のバブル経済全盛期は、人の夢は現実の社会で具現化されていた。けれどバブルが崩壊すると、人の夢は行き場を失い、テレビ画面の中へと投影されるようになった。テレビの世界では、現実よりひと足遅れてバブルが花を開いたわけだ。インターネット前夜でもあり、どの局もどんな番組も、視聴率は軒並み高かったんじゃないかと思う。いわば、テレビの黄金期。

そんなタイミングで芸能界に入っていったから、業界は華やかなことこのうえなく僕の目に映った。身を浸していると、純粋に気分が上がる。とりあえず楽しいのはまちがいない。

それ以前に僕がいたストリートやクラブカルチャーの世界は、芸能界と隣接してはいるものの、行き来してはいけないという雰囲気があった。当時はまだクラブなんて「悪い人たちのいる世界」と思われていたから。本当はそっちのほうにこそイケてるファッション、最先端のカルチャーがあったというのに。

いちばんイケてる世界と遮断されて、自分の感度が低くなっていくのは肌身で感じた。そのうちに、自分の感覚ひとつを頼りに生きようという感覚自体を丸ごとスイッチオフしてしまうことも覚えてしまった。そうでもしないと、精神のバランスを保てそうになかった。

次回に続く


【小橋賢児の半生①】俳優から転身! なぜULTRA JAPANを手掛けたのか?


小橋賢児
小橋賢児
1979年東京生まれ。’88年に俳優としてデビュー、NHK朝の連続テレビ小説『ちゅらさん』など数多くの人気ドラマに出演。2007年に芸能活動を休止し、世界中を旅して回る。現在はULTRA JAPANや未来型花火エンタテインメントSTAR ISLANDをはじめ、話題のイベントをプロデュース。マルチクリエイターとして活躍する。
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