ONE日本代表・秦アンディ英之のスポーツに救われた人生<第3回>

3月31日。東京・両国国技館。この日、アジアを拠点とした世界最大の格闘技団体「ONE チャンピオンシップ」が「ONE: A NEW ERA -新時代- 」を開催。世界140ヵ国26億人以上が毎回の大会開催に熱狂し、アジア各国では圧倒的な支持を集めてきた「ONE」がいよいよそのヴェールを脱ぐ。日本開催を実現させたONEチャンピオンシップ・ジャパン代表の秦アンディ英之氏に、どんな経緯でONEを率いることになったのか話を聞いた。

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日本の武道とアメリカの自由主義のハイブリッド

2018年12月。ニールセンスポーツノースアジア社長の秦アンディ英之が、世界最大規模の格闘技団体「ONEチャンピオンシップ」の日本社長に就任したことが発表された。

「そこにあるのは熱ですね。純然たる熱意です」

ONEチャンピオンシップは2011年にシンガポールで、ビクター・キュイとチャトリ・シットヨートンのによって設立された。現CEOのチャトリ氏は秦氏の一歳上。タイ国籍だが日本人の母を持ち、幼少からムエタイに励んできた。父が事業の失敗により一家は路頭に迷うも、勉学に勤しみ、アメリカに渡ってハーバードでMBAを取得。投資銀行に勤め若くしてウォール街やシリコンバレーで大きな成功を収めると、アジアの可能性に目をつけONEを設立。格闘技を通じてアジアを一つにする事業に心血を注いだ。

「チャトリは若い頃に大変な貧困の中、武道の精神を大事にしてきたことで何度も助けられたと聞きます。若くしてお金の心配が一切ない成功を収めた後、物質的なものがすべて満たされても、最後に自分の心を満たしてくれたのは生き様である武道の精神だった。その集大成としてのONEというものに辿り着いたのでしょう。

彼は決断も動きも速く、経営者のタイプで言えばソニーの盛田さんやソフトバンクの孫正義さんのような創業型の人間です。僕の周りにはいなかったタイプなので多大な刺激を受け続けていますが、これだけの大きなものを作り上げた人物ですから、基本は多大なるリスペクトがあります。そのうえ、人間的な魅力も備わっていますから、やはり応援したくなりますよね。新しいものを作るわけですから、リスクがあるのは承知です。しかし、これだけの可能性に溢れたONEというもので一緒に時代を作っていきたいというね。そんな熱量が存在していたことは間違いありません」

日本人とタイ人のミックスであるチャトリと同じように、日本人である秦アンディ英之も父の仕事の影響で子どものころから複数の国を転々とし、その文化の違いを肌で感じ取っていた。そして、難しい壁が現れる度に助けてくれたのはいつもスポーツであることも共通している。アンディが生きてきた道のり。今の考え方へと繋がる興味深いその人生を紹介してもらおう。

「生まれは南米のベネズエラ。小学校はアメリカのフィラデルフィアですね。英之は英語の発音だと“ハイディ”という女性の名前に聞こえる。それが恥ずかしく思えた反発から“アンディ”という男の呼び名を名乗るようになったんです。フィラデルフィアを舞台にした映画の『ロッキー』が大好きで、大きな影響を受けていました。弱者が強者を倒し、フェアプレーの下、理不尽さを覆すなど、生き方の指針を知らず知らずのうちに植え付けられたのだと思います。

フィラデルフィアは白人が多く、偏見もハンパじゃない街でした。白人以外の人種は"その他"と括られるのですが、面白いのは"その他"であるアジア人、黒人、スペイン人たち全員が仲間という意識が芽生えてくること。韓国人・ベトナム人・フィリピン人なんて会った瞬間『ヘイ、ブラザー』ですよ。そう言った環境で育ったことは大きく今にも影響していますね」

28日に行われた記者会見にて。出場選手、CEOのチャトリ・シットヨートン氏と。

中学生になり日本へ帰国すると、アンディは真逆の文化の中に放り込まれる。アメリカ社会で育った人間など、ガイジンなど見たことがない田舎の日本人にとっては自己主張が強く、表現力が豊か過ぎて、NOもハッキリ言うから宇宙人と同じ扱い。しかも英語教師よりも英語ができたことで周囲からカンペキに浮いてしまい、この「空気を読む」ことが至上の日本的な見えない壁の前に、アンディ少年は戸惑い、道を外し、自分を見失いかけた。そんな時、いつも助けとなり、救ってくれたのはスポーツだった。

「アメリカにいた頃はアメフトや野球、バスケなどをシーズンごとにやらせてもらい、仲間もたくさんできた。中学になって完全に浮いてしまい一時は学校に行かなくなってしまうのですが、そこからもう一度『好きだったアメフトをやりたいから高校受験を頑張る』と必死で受験勉強を開始し、桐光学園に入学。ラグビー部に入ることができました。

2年生の時に父親が再びフィラデルフィアに転勤が決まり、アメリカに戻って好きなアメフトができると喜んで戻りました。ハバーフォード・スクールでかつての旧友と再開すると、どうも様子がおかしい。『おい、アンディ、おまえ、おかしいんじゃねえか。どうしたんだよ?』と怪訝な友人たち。どうやらコミュニケーション能力が日本式に慣れてしまい、自己主張を殺すようになっていたんですね。

そんな小さな日本人が、保守的な街の国技であるアメフト部に行っても、相手にされないんです。紹介すらされず無視されて、またしても見えない壁に惑わされるのですが、最初の練習で2mの選手に思いっきりドーンってタックルに行ったんです。その瞬間ですよ。メンバーがバーッて駆け寄って来て「OK!」って。これでもう一生の仲間になった」

ハイスクールでアメフトのプレーヤーとして活躍したアンディは、アメリカの大学に進学してアメフトを続けようと考えていた。しかし、1990年に湾岸戦争が起こることで大きな考え方の転換がなされる。

「戦争が起こったことで、自分のルーツというものを考えるようになりました。アフリカ、ドイツ、アイリッシュ、ユダヤ……アメリカは自分たちの祖先、ルーツというものを大事にしている国です、あの当時、僕は日本のことをよく聞かれたのですが、僕の中に日本が抜け落ちていたんですね。このままじゃいけない。祖国を知る必要があると。ならば勉強よりも武道だ。日本にはアメフトを通じて日本の文化であり、武道の精神を学べる場所があると。そうして選んだのが明治大学のアメフト部でした」

明治大学アメリカンフットボール部。通称グリフィンズ。1934年創部と立教大学と共に日本のアメフトのルーツ校となる名門にして古豪。'91年、18歳の秦アンディは、日本の体育会系のど真ん中にあるこの門をくぐった。

「明治大学という伝統ある大学で4年間揉まれて、様々な衝撃を受けることになります。深い世界でした。自分の人生の軸となるようなものをたくさん植え付けられました。なによりも嬉しかったのは『帰国子女のアンディ』から『明治の秦』だとなった瞬間です。深い日本を知ることによって見えなかったものが、だんだんと見えてきたこともあります。

その中のひとつが、アメリカの欧米的な自由主義的な世界と、日本の武道から成り立つ精神論から入る世界というのは、真逆の世界のようであっても、最終的に行きつくところは一緒ということです。過程が違うだけであって、上に行けば行くほど目指すべく領域は実は同じだった。そのことがすごく興味深かったですね」

明治大学を卒業後はソニーに就職。それと同時に社会人アメフトの名門クラブ『アサヒビールシルバースター』に入団する。明治では日本一を逃し続けていたが、シルバースターは全日本のトップ中のトップが集まる常勝軍団。そこにはまた違った次元の“武道”が待っていた。

アメフトで日本一になった時のチャンピオンリング。

「ここも本当に深い世界。選手たちは誰も『日本一になる』とか『練習しろよ』なんて一言もない。夜に川崎集合のナイターに集まれば、できて当然。練習は頭を整理するだけで流すだけ。だけど、本番では凄まじいプレーを魅せる。なぜなのか。裏でやっている努力を誰にも見せないんです。さらに選手は他に仕事を持っていて、思うように練習ができない。その中でもやり切った人間しか残っていかないんです。僕自身も1年目は学生気分の延長、2年目は仕事が忙しくて練習を中途半端にした結果、足首を骨折してしまう。やがて干されて戦力外になっていきます。

『なんで小さな頃から好きでやってきたものを、こんなことで終わらせなきゃいけないんだ』とすごく悔しくて、そこで3年目はこれまでの自分の行動を記したノートを全部見直して弱さを徹底的に洗い出し、すべてを追求しようと。生活もトレーニングも変えると、身体も変わってきて、そうなると動かなかった相手が動かせるようになる。そんなちょっとした変化かもしれませんが、その1999年はシルバースターが日本一になります。これが私の人生の中で最も大きな、2つの価値観を生んだものです。

ひとつは“ここまでやらないと日本一にはなれない”。もうひとつが、“ここまでやれば日本一になれる”ということ。正直、それまでの自分は他人を羨んで何かのせいにして逃れていたところがありました。日本一になれたこの1年間のおかげで私の人生観はすべて変わりました。日本一になる難しさ。勝てるチームのタイミング。その過程の中で自然と湧き上がってくる“熱さ”のようなもの。いろいろなものを学ばせてもらいました。それは、後にビジネスの中で、ワールドカップや世界大会、日本一、世界一になった人たちにその経験談を深く聞いていくと、必ず同じことを言うことに気が付きます。

勝ち上がる人や組織は、どこかで必ずスイッチが入るタイミングがある。そして、栄光には近道はない。日々やってきたことは絶対にウソをつかないということです」

アンディは大きな宝を手にプレーヤーとしてアメフトを引退すると、今度は外側からあらゆる角度でスポーツというものに深く携わっていく。

第4回に続く


Hideyuki Andy Hata
1972年生まれ。アメリカと日本を往復する少年時代を過ごしたのち、明治大学を卒業し、ソニーに入社。ソニーで働く傍らアメリカンフットボール選手として、名門アサヒビールシルバースターで活躍(リーグ優勝も経験)。米ソニー在籍時にはスポンサードしていた2010年サッカーW杯の広告戦略等にも携わった。その後、世界的なスポーツ専門の調査コンサルティング会社、ニールセンスポーツの北アジア代表兼ニールセンスポーツ ジャパンの代表を務める。2018年12月、ONEチャンピオンシップ・ジャパンの代表に就任。


Text=村瀬秀信 Photograph=太田隆生