【野宮真貴】渋谷系とピチカートを語る。「私たちが世界でいちばんカッコいい」

1990年代、東京・渋谷を発信源に世界へと広がった「渋谷系」ムーブメント。いまも若いミュージシャンやアーティストに刺激を与え、海外のクラブでも’90年代の渋谷系シティポップがスピンされ続けている。そんな渋谷系の中心にいたグループがピチカート・ファイヴ。野宮真貴さんは、3代目ボーカリストとして’90年に加入し、解散する2001年まで音楽とファッションの両面で、渋谷系のアイコンとしてムーブメントを牽引した。現在は、シンガーのほか、エッセイの執筆、ヘルス&ビューティーのプロデュースなど、幅広い分野で活躍している。野宮さんに、ピチカート・ファイヴ時代のエピソードから、子育て論、現在の活動、11月3日と6日にリリースされるベストアルバム『PIZZICATO FIVE THE BAND OF 20TH CENTURY : Nippon Columbia Years 1991-2001』まで、話を聞いた。


明確な役割分担がありがたかった

ピチカート・ファイヴは「渋谷系」というキーワードで括られますが、当時、意識することはなかったですね。ただ、埋もれていた過去の素晴らしい名曲をリスペクトして表現したり、アートワークにこだわっていた。それが、結果として「渋谷系」と呼ばれるようになったのだと思います。

ピチカート・ファイヴでは、役割分担が明確でした。1990年に加入した頃は、小西康陽さんと高浪慶太郎さんとの3人編成だったので、私も歌詞を書いていましたが、小西さんと2人編成になってからは、彼は曲と詞を同時に作っていくタイプなので、私は、「歌うこと」と「魅せること」に集中しました。例えていえば、映画監督と女優のような関係性。ジャン=リュック・ゴダールとアンナ・カリーナのようなね(笑)。小西さんが作る世界観を、私は歌とビジュアルで表現する。その明確な役割分担が私には心地よかったんです。自分のやるべきことに専念できるようになって力を発揮しやすかったし、小西さんにとってもいろいろクリアになったんじゃないかな。

最初に小西さんから「照れくさいから、自分が作る曲や詞に対して質問しないでね」と言われました(笑)。だから私は「この曲はどういう気持ちで歌ったらいいのか?」なんていう質問は一切しませんでしたね。小西さんの作る楽曲を心から信頼していましたし。そんな信頼関係があったから、10年間一緒に活動出来たと思います。

それぞれが自分の役割でベストを尽くし、最高のものを作り上げる。小西さんは最高の曲と詞を作ってくれたし、信藤三雄さんのアートワークも素晴らしかった。‘90年代はLPレコードからCDに移行する過渡期。当時のCDジャケットのデザインは、LPのデザインをただ縮小したようなものが多くて、おしゃれとは程遠かったですね。そこで、信藤さんと私たちはCDという形態を逆手に取って「持っていてうれしいアートワーク」をとことん考え、プラスチックのCDケースのトレイを透明にし、ヴィジュアルを最大限見せられるように工夫をしたり、ケース全体にアートワークを施しました。CDジャケットがセンスアップしたのは、信籐さんと渋谷系のアーティストの功績が大きかったと思っています。

自分の魅せ方については、「私は圧倒的なスターに憧れて育ったので、自分もシンガーとしてそうありたいな」と。いまの時代は、スターであっても親密さが大事なようですが、手が届きそうで届かない神秘のベールは必要。それは夢を与えることだから。だから、当時はゴージャスな衣装やカラフルなウィッグも大切な要素でした。

"ピチカート・ファイヴの野宮真貴"は、小西さんの書く歌詞の中の女性像とリンクして受け取られることが多かったので、初期の頃は「気の強い女性」と思われることが多かったです。話してみると「意外といい人だった」って(笑)。でも、時代の先端をいくファッションアイコンと呼ばれることは光栄でした。

当時の悩みといえば、"ピチカート・ファイヴ=おしゃれ”というイメージが先行して、仕事で地方へ行くと決まって、おしゃれなカフェのようなお店に案内されるんです。本当は地元の名産を豪快に食べたいのに(笑)。気をつかっていただいてのことなので、なかなか本心を言い出せなくて。それは海外でも同じでしたね。ワールド・ツアーでドイツに行った時も、毎日おしゃれなイタリアン・レストランで。どうしてもシュニッツェルを食べたくて、小西さんとホテルを抜け出してドイツパブに出かけた思い出があります。

世界に媚びず、自己のスタイルを貫く

ピチカート・ファイヴがいまも色褪せることなく聴かれ続けているのは、完成度が高かったからでしょうね。音楽はもちろんアートワークも、納得するまで一切の妥協を許さず徹底していましたから。その思いやエネルギーが作品に反映されているからこそ、時代を超えるのだと思います。

そして、「私たちがやっていることは世界でいちばんカッコいい」という自負もありましたね。海外進出の際も、「外国だから英語で歌おう」じゃなくて、自信をもって「日本と同じようにやろう」と決めました。その結果、ピチカート・ファイヴにオリジナリティを感じたアメリカのレコード会社との契約も決まりました。ワールド・ツアーではどこへ行っても、日本語の歌詞で大合唱でしたよ。オリジナリティと自信があれば、国境は越えられるんです。

そして、音楽への深い愛があったこと。レコード・コレクターでもある小西さんには、’60年代の名曲など、たくさん教えてもらいました。それらをリスペクトしながら取り込んで、自分たちの新しい世界を作り上げました。音楽だけではなく、映画への愛もありましたね。ライブではステージに設置したスクリーンに、日本や海外の古い映画のコラージュ映像を流しました。当時、そうしたことをやっているミュージシャンはなく、観客は懐かしさと新しさを同時に見出したのでしょう。

もうすぐ、ピチカート・ファイヴのベストアルバム『THE BAND OF 20TH CENTURY : Nippon Columbia Years 1991-2001』が発売になります。11月3日に7インチ16枚組の「7inch BOX」、11月6日にCD 2枚組の「CD ALBUM」。内容は微妙に違いもありますが、私は「7inch BOX」をお薦めしたい。レコードジャケットのアートワーク16点が、ピチカートの世界観をより強く感じさせてくれます。渋谷系とともに青春時代を過ごした方にはもちろん、若い世代にも聴いてほしいですね。あと、11月26日から毎年恒例のライブ「野宮真貴、渋谷系を歌う。」ツアーをやるんですけど、今回は「野宮真貴、ピチカート・ファイヴを歌う。」と題して全編ピチカートの曲だけを歌うライブをやりますので是非!

個人的に好きな曲を1曲だけ選ぶとすると、やはり「東京は夜の七時」。もう何百回と歌っていますが、毎回新鮮な気持ちで歌える、真の名曲だと思う。2016年にリオのパラリンピックの閉会式で使われた時は、事前に聞いていなかったので驚きましたが、うれしかったですね(笑)。世界中のピチカート・ファイヴのファンも喜んでくれたと思います。

ピチカート・ファイヴで活動していた10年間は、すごく充実していて毎日が楽しかった。細かな苦労話は山ほどありますが、それも今では懐かしい思い出。個人的には、ピチカート全盛期の’96年に結婚、出産をしたんですが、妊娠5ヵ月で全国ツアー、7か月の時にはギターでお腹を隠して、CM撮影もしましたね。今思えば、ちょっと無茶だったかな(笑)。

子育てに関しては、親が子供と一緒にいる時間は限られているから、たくさん愛して、たくさん褒めること。子供に必要なのは、これから一人で生きていくのに必要な「褒められることによる、揺るぎない自信」と「愛されている安心感」。それから、子供が小さい頃は、よく仕事の現場に連れて行っていました。私のスタッフに会うことで、世の中には様々な職業があることがわかるし、私の仕事も理解できる。会社員になろうと、ミュージシャンになろうと、医者になろうと、それは子供が選ぶこと。好きなこと、得意なことをやればいいと思っています。

私が心がけていることは、「その時にもっているものでベストを尽くす」こと。無理をしないで、自分を客観的に見て、おしゃれや健康や人間関係をメンテナンスしながら生きていくのがコツ。そのあたりは、エッセイ『おしゃれはほどほどでいい 「最高の私」は「最小の努力」で作る』(幻冬舎文)に書いてますので是非読んでみてください。

Maki Nomiya
ピチカート・ファイヴ3代目ボーカリストとして、1990年代に一世を風靡した「渋谷系」ムーブメントを国内外で巻き起こし、音楽・ファッションアイコンとなる。 2010年に「AMPP認定メディカル・フィトテラピスト(植物療法士)」の資格を取得。2019年はデビュー38周年を迎え、音楽活動に加え、ファッションやヘルス&ビューティーのプロデュース、エッセイストなど多方面で活躍中。11/26よりビルボードライブ東京・大阪そしてブルーノート名古屋にて「野宮真貴、ピチカート・ファイヴを歌う。」ツアーを予定。


『おしゃれはほどほどでいい 「最高の私」は「最小の努力」で作る』
野宮 真貴
¥540 幻冬舎文庫

Text=川岸 徹 Photograph=杉田裕一