鉄格子の世界 ~元NHKスクープ記者 立岩陽一郎のLIFE SHIFT 第15回

これまで華々しい実績を残してきたNHKを49歳にして去り、その翌日単身渡米、巨大エリートメディアを去った一人のジャーナリストによるエッセイ。第15回目は、拘置所の中をレポート。


拘置所のあり方を問う

「ここから先はスリッパに履き替えることになります。ベルトもネクタイも身につけることはできません」

「ベルト、ネクタイは自殺防止ですね?」

「そうです」

しかしなんでスリッパなのだろうか? そう問うと制服姿の係官は淡々と答えた。

「逃走防止のためです」

なるほど……逃亡かぁ。

2012年の春だったとかと思う。私は大阪拘置所にいた。といって、別に何かしでかしたというわけではない。取材だ。NHKで長く事件を取材していた私だが、実際に逮捕された人が過ごす場所に入ったことはなかった。

現在、建て替えが進んでいるその建物。私の立つ廊下は妙に寒々しかった。この厳重な施設からの逃亡は考えにくいとは思いつつ、私は係官の説明を聞いていた。

係官と私がいる廊下はその奥が鉄格子で区切られている。係官の口にした「ここから」とは、この鉄格子の先のことのようだ。

私は係官が開けてくれた鉄格子のドアを越えて、「ここから」の先へと入っていった。

現在、建て替え中の大阪拘置所。

日産の元会長、カルロス・ゴーン氏が逮捕されたのは2018年11月19日。東京地検特捜部に逮捕されたゴーン氏はその後、拘置所に身柄を入れられ、2019年1月8日に勾留理由の開示を求めて裁判所に出廷した以外は、この鉄格子の先の世界で日々を過ごしている。

そのニュースを追いつつ、大阪拘置所の事を思い浮かべていた。

ゴーン氏が勾留されているのは東京拘置所だ。しかし内部はどこも変わらない。彼もスリッパのペタペタという音を響かせながら歩いているのだろうか。ベルトもネクタイとも無縁な生活。常に高級スーツに高価なネクタイで通してきた人間にとっては、その差に愕然としたことだろう。

その愕然とした状態が捜査側に都合が良いという話も聞いたことがある。

ゴーン氏が長期間にわたって拘置所に入れられていることは日本人にとっては特に不思議なことではない。「悪いことをやったんだから仕方ないだろう」という程度の認識だろう。しかし、考えてみると、拘置所に入る段階では、まだ「悪いことをやった」とは断定できない。

それと、欧米からはこの勾留という措置は極めて奇異にみられることは知っておいた方が良い。それは、結果的にゴーン氏が有罪になるかどうかは全く関係ない。後述するが、これを誤解している新聞記者は多い。

欧米が問題にしているのは、捜査が尽くされたか否かではなく、捜査の進められ方だからだ。Due processだ。

私はフランスの制度については全く知らないが、アメリカについては多少なりとも知っている。

例えば、トランプ大統領の疑惑を捜査している特別検察官は既に多くのトランプ大統領周辺の幹部を起訴している。しかし誰一人、身柄を長期間にわたって拘束してはいない。

アメリカでは身柄を勾留する際の要件が厳しいからだ。先ず逃亡の恐れ、証拠隠滅の恐れ、そして自殺の恐れだ。勿論、捜査機関が身柄を拘束しておきたいのは、日本とアメリカでかわりはない。しかし、裁判所が認めない。

上記の要件を満たさなくても身柄が勾留されるのは、殺人事件の被疑者やテロ事件の被疑者など、身柄を拘束しないと社会に害を及ぼす危険のあるケース。最近では、オリンピック代表選手を含む女子体操選手に長期間にわたって性的な迫害を行っていた医師も身柄を勾留されたまま裁判で有罪判決を受けていたが、このケースは被告が自殺する懸念があったからだろう。

贈収賄やトランプ大統領をめぐる疑惑といった事件をアメリカでは「ホワイトクライム」、つまりホワイトカラーの犯罪と称するが、そういう事件では身柄の長期勾留はない。報道から見て、フランスの制度もアメリカに近い。

では、保釈された被疑者、被告はどうなるのだろうか? 完全に自由なのかというとそうではない。 

先ずパスポートは没収される。そして足首にGPSのついた装置をつけられ24時間監視体制に置かれる。恐らく、全ての会話は盗聴されると見て良い。そして自宅に帰される。証拠隠滅の恐れがなければ、職場に行くことも可能だ。

仮に、ゴーン氏がアメリカで同じような容疑で逮捕された場合は、上記の措置をされた上で自宅に帰り、場合によっては日産の取締役会に出ていた……かもしれない。日産は阻止するだろうが。

繰り返すが、身柄の勾留を決めるのは日本もアメリカも裁判所だ。そして身柄の勾留を求める捜査機関の意識は日本もアメリカも同じだ。野に放てば、何をするかわからないと考える。ただ、日本は圧倒的に検察の意見が通る。検察が「証拠隠滅の恐れ、逃亡の恐れが有る」と主張すれば、裁判所は「はい、はい」と言って身柄の勾留を認めてしまう。

ここに違和感を覚える欧米の人は多いだろう。

一方で、拘置所は厳密には検察とは別組織であることも間違いない。だから、身柄を勾留しているといっても、検察がゴーン氏を24時間監視しているわけではない。それでも、外界からの接触を制限されている環境は捜査する側には都合が良い。その検察の、つまり特捜部の捜査の手法については、別の回に譲る。

今回、ルノーの本社があるフランスを中心に批判的に見られているのは、そうした日本の刑事制度全般だ。日本のそれは、「19世紀的」ではないかという指摘も出た。

それについてテレビに出た元検察官の弁護士らが、「国によって刑事司法制度が異なる」と抗弁しているが、それは苦しい言い訳だ。前述したアメリカの身柄の拘束理由は、実は日本も同じだからだ。

ゴーン氏側が裁判所に身柄の勾留理由の開示を求めた際、裁判所は、「逃亡と証拠隠滅の恐れが有る」と説明した。この説明をアメリカ人が聞けば不思議に思うだろう。仮にゴーン氏が逃亡して日本から密出国したとしよう。ゴーン氏はどうなるだろうか? 恐らく、社会的な地位を失うだろう。ルノーの会長に留まることは不可能だろうし、ましてやブラジルの大統領選挙に出るなど夢また夢になってしまう。つまり彼は全てを失うことになる。なんせ、日本から逃亡したお尋ね者だから。

証拠隠滅はあり得るだろう。これは、そもそもが長期間にわたって身柄を勾留することを前提としている日本の刑事司法では議論されてこなかった点だが、欧米では、前述の通り、24時間監視対象とする制度が有るので、それによって証拠隠滅行為も防止できる。行動も制限される。必要なら、そういう制度の検討を日本もすべきだろう。

「東京地検特捜部の約70年の歴史でも、これほど世界の注目を浴びた事件はない」

朝日新聞は1月12日の記事でこう書いた。それは事実だろう。しかし、結びを読んで違和感を覚えた。

「国外からの不信を解くためにも、丁寧な立証、説明が不可欠なのは言うまでもない」

これは何も言っていないに等しい。問題は、ゴーン氏が有罪になるか否かではない。ゴーン氏は有罪にはなるだろう。検察は必死だし、なによりも日産が捜査に全面的に協力しているわけだ。ゴーン氏にとって不利な証拠しか出て来ない状況だ。問題は、有罪にするその仕方にある。

また、「単なる有罪立証にとどまらず、綿密な証拠に基づいて公平公正な捜査をしたという証拠が求められる」とも書いている。

これは記者特有の書き方で、検察に厳しい注文をつけた様に見せて、実は全く検察に寄り添ったコメントだ。では、逆に問いたい。「綿密な証拠に基づいて公平公正な捜査をした証拠」とは何になるのか? 特捜部が事件を有罪に導く際の決定的な証拠は、調書だ。どんな事件も、調書の上では「綿密な証拠に基づいて公平公正な捜査をした」ことになっているし、これまでもなってきた。それでも冤罪は起きているし、有罪の中にも不可思議な有罪も散見される。なぜそれが起きるのか? 拘置所に長期にわたって勾留する中で調書が作られるからではないのか?

今回、外国から批判の目が向けられているのは、ゴーン氏が可哀そうだということではない。「パナマ文書」を各国のジャーナリストと取材した経験で言えば、ゴーン氏の様な人間への厳しい目は日本も世界も同じだ。

批判されているのは、拘置所に長期にわたって勾留し外界と遮断させた状態で取り調べを続ける日本の刑事司法の手法だ。「人質司法」とは日本でつけられた名称であることを、よもや記者は知らないわけはない。

これは興味深いことだが、総理大臣に対しては厳しい批判を辞さないメディアも、検察や裁判所の批判はほとんどしない。しないという以上に、検察については検察官が説明した通りに報じられる。裁判所にいたっては説明さえしないので、深く立ち入らない。

「本当に、ゴーン氏が逃亡すると思っているのですか? 国外に逃亡してフランスに行って、それでルノーの会長におさまって……そんなことあり得ると思っているのですか?」

裁判所にそう問えば良い。大手メディアが独占する記者クラブ制度が仮に存在意義があるとすれば、そういう質問ができる点にある。

日本では東京拘置所に次ぐ規模の大坂拘置処。通称「大拘(だいこう)」。

再び、拘置所の記憶に戻る。鉄格子で区切られた区域を更に奥へ行くと、独居房の区域があった。2畳半から3畳ほどの大きさだったと記憶している。報道によるとゴーン氏は独居房にいる。

奥にトイレの便座が置かれている。当然、それはむき出しだ。これは辱めを与えるためではなく、単に監視の目が届くようにということだ。ただ、これを屈辱だと感じる人は多いだろう。

手前には小さな机が……ちゃぶ台といった感じか。

「日中はここに座って過ごすことになっています」

係官が説明した。

時折、拘置所と刑務所を混同している人がいるが、収容されている人間が作業をするのは刑務所だ。拘置所は判決を待つ身故、何をするということはない。取り調べを受ける以外は、ここに座って時を過ごすということだ。

独居房の中に入れてもらって、係官に扉を閉めてもらった。廊下も寒々しいが、中はもっと寒々しい。否、実際に寒い。

「ちゃぶ台」の前に座った。背中にコンクリートの冷たさが走る。狭いのでコンクリートの壁を背にするような形になる。目の前も当然、壁。右側には鉄の扉。左側には便座。

私なら、どうするだろうか。ここに座って……差し入れてもらった鉛筆と紙で何かを書き続けるだろう。一心不乱に。それは私がジャーナリストだからではなく、そうでもしていないと精神的に落ち着かないからだ。少なくともこの部屋は、人をそういう状況に落としこむ。

ふと立ち上がって自分が今座っていた壁が目に入った。冷たさを感じた壁だ。そこの背中をあてた部分が薄く削れている。

「これはなんですかね?」

係官に尋ねた。

「背中と壁がこすれたためにできた跡です」

背中と壁がこすれた跡……まるで巌窟王ではないか。

「19世紀的」……確かに、今思い返しても、拘置所の取材は「19世紀的」な体験だった。


立岩陽一郎
立岩陽一郎
調査報道を専門とする認定NPOを運営「ニュースのタネ」の編集長。一橋大学卒業。NHKで初めて戦場特派員としてイラク、クウェートを取材。社会部記者、1年間の米国留学の後、国際報道局デスクを経験するなど華々しいキャリアを築くも「パナマ文書」の取材を最後に49歳にしてNHKを辞職しその翌日渡米。現在は公益法人「政治資金センター」理事や毎日放送「ちちんぷいぷい」のレギュラー・コメンテータ、ニュースメディアへこれまで培ってきた報道の世界の鋭い目線で記事を提供するなど活動の幅は多岐に渡る。『トランプ王国の素顔ー元NHKスクープ記者が王国で観たものは』などの著書がある。近著は『トランプ報道のフェイクとファクト』。
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