【阿部勇樹】国体、五輪、浦和、日本代表でともに闘った闘莉王の引退に想うこと

阿部勇樹は輝かしい経歴の持ち主だが、自らは「僕は特別なものを持った選手じゃないから」と語る。だからこそ、「指揮官やチームメイトをはじめとした人々との出会いが貴重だった」と。誰と出会ったかということ以上に、その出会いにより、何を学び、どのような糧を得られたのか? それがキャリアを左右する。【阿部勇樹 〜一期一会、僕を形作った人たち~⑨】。


高校2年、闘莉王と同じチームで戦っていた

田中マルクス闘莉王が引退を発表した。

また一人、同じ年の選手が現役生活に別れを告げた。

まずは「おつかれさまでした」という言葉が浮かぶ。アテネ五輪代表で、浦和レッズで、そして日本代表で頼もしいチームメイトだった。
 
実はもうひとつ、僕らは同じチームでプレーしている。

千葉県代表だ。闘莉王は渋谷幕張高校。僕はジェフ市原U-18から選出され、地域予選の数試合を共に戦った。高校2年のときだ。

闘莉王はブラジルから来日し、1年あまりしか時間が経っていなかったから、まだ日本語を完璧には理解できていなかった。それでも、「自分のことをわかってもらおう」という積極的な姿勢で、不慣れな環境でも遠慮なんてしていなかった。そんな闘莉王に対し、日系ブラジル人選手だとか、ブラジル育ちというふうな特別な眼で見ることもなく、熱い気持ちを持った仲間だと感じていた。

千葉代表は国体で優勝したけれど、僕はすでに、ジェフのトップチームでの活動もあり、本大会には出場できなかった。

2001年、高校を卒業した闘莉王がサンフレッチェ広島へ加入し、開幕戦で鹿島アントラーズ相手にゴールを決めたときは、彼の攻撃力をすぐさま発揮したんだなと思った。その年、僕は脛を手術したことあり、広島戦には出場しなかったので、対戦はしていない。翌2002年に2度対戦したけれど、強いインパクトを抱いたのは、2004年に浦和レッズへ加入してからだ。

2003年、広島の外国人選手枠の関係で、J2の水戸ホーリーホックへ移籍。ジェフのアカデミー(育成年代)のチームを指導していた前田秀樹さんが監督を務める水戸で、DFながら10得点を挙げた闘莉王は、自信を身に着け、大きく成長したと思う。

1対1の強さもふくめて、気持ちを前面に出してプレーし、チームメイトを鼓舞し続ける存在となった。後ろにそういう選手がいれば、闘志や姿勢はチーム全体に波及し、浸透していく。そのうえ、後方から攻め上がってもくるし、セットプレーでもゴールを決めるから、闘莉王はレッズにおいて、大きな脅威を持つ存在になった。

2004年に浦和はステージ優勝を果たす。チャンピオンシップでは敗れてしまったけれど、一躍トップチームへと飛躍したレッズの核になっていたと思う。

レッズを牽引していたのは、そんな闘莉王をはじめ、その年の夏、アテネ五輪を戦った選手や惜しくも本大会メンバー入りを逃したアテネ世代の選手たちだった。

その前年、イビチャ・オシムさんが、ジェフの監督に就任し、僕はキャプテンを任されることになった。大きな責任を担い、自分自身が変わらなければいけないと考えていた。そんな僕にとって、初めての世界大会となったアテネ五輪で突きつけらえた現実は、「このままじゃダメだ」という危機感を与えてくれた。上を目指す欲を満たすためには、日々を過ごすクラブでの時間が重要になる。

その想いを刺激してくれた選手のひとりが闘莉王だった。

続く

Yuki Abe
1981年千葉県生まれ。浦和レッズ所属。ジュニアユース時代から各年代別で日本代表に選出される。'98年、ジェフユナイテッド市原にて、16歳と333日という当時のJ1の最年少記録を打ちたて、Jリーグデビューを飾る。2007年、浦和レッズに移籍。2010年W杯終了後、イングランドのレスター・シティに移籍。'12年浦和に復帰。国際Aマッチ53試合、3得点。


Text=寺野典子 Photograph=杉田祐一


>>>【阿部勇樹】一期一会、僕を形作った人たち

①ブレない精神を最初に教わった師とは?

④怪我の多かった阿部勇樹が鉄人と呼ばれるようになった理由

⑧松井大輔、鈴木啓太らと石川直宏を労う会で感じたこと