ミュージシャン・伊勢正三 五感を解放し自然と会話するフライフィッシング

水生昆虫や陸生昆虫を模した毛針(フライ)で渓魚を誘うフライフィッシングは、 片思いの女性を振り向かせるがごとく、紳士的に、粘り強く魚と向き合う釣りだ。 恋い焦がれる1匹を求め、ひたすら自然の中で過ごす時間。 この〝閑(ひま)〞こそが、情感豊かな詩(うた)を生みだすミュージシャンの糧になっている。


ポジティブな〝閑〞を学ぶ、紳士の遊戯

この日訪れた神奈川県丹沢山中は、時折強風が吹きつける最悪のコンディションだった。ミュージシャン、伊勢正三氏が興じるフライフィッシング・スタイルは、渓魚をドライフライ(水面に浮く毛(フライ)針)で狙うのだが、強風はラインコントロールを狂わせ、ポイントに毛針を落とすだけでも苦労する。しかし、そんな悪条件下でも、伊勢氏に焦りは見えない。

「強風が吹くと枝葉にとまっていた昆虫が水面に落ちるから、魚はむしろ喜んでいるのかも? 僕たち釣り人は、いつも人間目線で物事を考えているよね」

普通の釣り人ならあたふたとポイントを探し回るところ、伊勢氏は風や川原を観察しながら、ライズと呼ばれる、魚が水面の餌(昆虫)を補食する行動を起こす時をじっと待つ。

「去年の最長ライズ待ち記録は4時間。何もしないで、ただライズを待つだけ(笑)。でもその間に素敵なメロディが浮かんだりするんです。無駄な時間を無駄と思ったら負け。ポジティブな〝閑(ひま)〞を学ぶために、この釣りはあるのかなって思います」

川が流れる音や葉がこすれ合う音は、人間が聞き取れなくても心地よく感じる波長を持つ。それはCDからは流れてこない、ライヴでしか味わえない独特の音域と似ているという。

ただ待つだけの時間を川で過ごしていると、自然が作りだす音の大きさや美しさに、いつも驚かされると伊勢氏。本当の地球を感じる瞬間が、そこにある。

「都会で聞こえてくるのは人工物の音ばかりでしょう? 自然の中にひとり身を置くことは、ミュージシャンにとって何より大切な〝耳〞と〝感性〞を研ぎ澄ましてくれるんです」

薄日が射しこみ、昆虫や魚のスイッチが入ったのを見極めた伊勢氏が、おもむろに立ち上がった。最初の毛針に待望の山女魚が反応するも、寸前で見破られ、魚はUターン。フライボックスから条件に合った1本を選び直し、ライズのあったポイントに再び毛針を送りこむ。すると山女魚は疑いもなく、一瞬にして毛針を吸いこんだ。

フライフィッシングはキャッチ& リリースが基本。山女魚にダメージを与えないよう、伊勢氏は川の水で手を冷やしてから毛針を外し、元の流れにリリースする。

そもそも伊勢氏がフライフィッシングに目覚めたのは、毛針に興味を抱いたのがきっかけ。

「巻いた毛針の出来で、半分くらい満足している」と言うほど、毛針を巻く時間が占める割合は高い。渓流にすむ魚の気持ちを徹底的に想像してつくりあげる毛針は、人間が見ても本物と見紛うばかりの精巧さだ。

「フライフィッシャーマンはね、ナルシストなんですよ(笑)。狙った魚を自分の毛針に反応させるためにじっと耐え、観察し、挫折してはまた毛針をつくり、川に戻る。こうして釣れた1匹が、至上の歓びなんです」

乱雑にも見えるが、マテリアルやツールの位置はすべて把握。このデスクで数千に及ぶ毛針が作られた。毛針には、自然に還る鳥や動物の毛が使われる。
Shozo Ise
1951年大分県生まれ。「かぐや姫」「風」のメンバーとして、「なごり雪」や「22才の別れ」などの名曲を世に送りだす。現在も精力的にライヴや楽曲制作を行う。フライフィッシングの名手としても有名。


Text & Photograph=勝俣雅晴 取材協力=丹沢ホームフィッシングエリア