【渋沢栄一】ビジネスパーソンなら必ず知っておきたい教養としての渋沢栄一①<青年期>

1万円札の表面を飾る肖像が、福沢諭吉から渋沢栄一へ。 先般駆け巡ったニュースで一躍、渋沢栄一への注目が高まっている。渋沢研究の第一人者たる島田昌和さんは「福沢諭吉から渋沢栄一への肖像転換は、『民の創出』から『多様な民の共存』への変化を象徴していると言えます。これからの時代に求められる思想が、渋沢栄一の生き方からは大いに読み取れます」と説く。21世紀型経済人のあるべき姿を探るために、壮年期のビジネスパーソン・渋沢栄一の言動をつぶさに教えていただこう。『若き日の渋沢栄一』連載第1回は、出世の糸口となった一橋家時代。


【はじめに】

いかにして渋沢栄一は、ビジネスパーソン・財界人として名声を確立したのか

渋沢栄一の生家。1840年(天保11年)2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる。

渋沢栄一というと晩年の写真が有名なので、その穏やかな風貌と「論語と算盤」の言葉から品行方正、強い倫理観の持ち主というイメージが強いでしょう。確かに虚業ではなく実業、投機でなく投資、独占でなく競争と常に訴え続け、官民癒着や経営者の腐敗を強く戒め続けたことからも高潔なビジネスパーソンであった事に間違いはありません。

このようなイメージが強いので若いときから人生を達観し、人との軋轢を嫌い、人を諭すようにビジネスを成し遂げてきたイメージができているかもしれません。確かにこれまで若い頃、30~40歳代の社会人として最も脂ののりきった頃の彼のビジネスパーソンとしての実像はあまり紹介されてきませんでした。

一方で、青少年時代は激動の幕末維新の中で変転著しくめまぐるしいまでに生き抜いたエネルギッシュさに惚れ込んだ多くの時代小説家が作品にしています。なのでここでは激情家としての青年期以降、ビジネスパーソン・財界人として名声を確立するまでの間、30~40歳代に渋沢がどんなふうに経験を積み正しい判断ができる一流の人になっていったかにスポットを当ててみたいと思います。

幕末の農家に生まれ、在地の新興商人の経験を積み、武士となって激動の京都をくぐり抜ける。それだけでも身分制社会の江戸時代には絶対に考えられない青春期です。さらにその後も時代の寵児一橋慶喜に仕え、渡欧のチャンスをつかみ、瓦解した幕府の後始末に身を粉にします。

驚くことに敵方の新政府に登用され、出世街道をばく進します。そのままいれば大蔵大臣はまず間違いなしだった地位をあっさりと捨てて、ビジネスの世界に身を転じる。身分制や敵対する立場を超越し、さらに我が道を自ら切り開いた超人的な唯一無二の存在でしょう。その社会人としてスタートを切った後の身の処し方、モデルのないキャリア形成をいかに選択していったのかを紹介していきたいと思います。

海図のない時代、過去の成功モデルが通用しない時代といわれる今に大いにヒントとなる人物として描いてみたいと思います。


【出世の糸口となった一橋家時代】

1864年(元治1年)24歳。一橋慶喜に仕える

若き日の渋沢栄一。武士として一橋家に仕えた。

同時代の若者が皆、熱に浮かれて政治運動に走ったように、渋沢も横浜焼き討ちというテロ行動を計画し、すんでの所で中止にします。その行動を起こしていれば、彼は捕らえられ打ち首になっていたでしょうからその後の活躍なしにそれで終わるわけです。

北関東にはその後も暴発事件はいくつも起こっていますので、それを思いとどまれる情報収集力と決断力が彼を長らえさせます。一橋家との縁のきっかけは危険回避、つまり幕府から捕縛されないためだったわけです。思想・行動としては完全な挫折でしょう。

攘夷の直接行動を諦める。それどころかどうしたら捕まらないかと安全な場所を探して逃げ込んだ、まさに負け犬のようなものです。平岡円四郎という開明的で物事にこだわらない人物を知っていて彼を頼ればとなんとか窮地を脱せられると最後の砦があったことが何よりの救いでした。

ところが、その平岡が勤王の志士に暗殺されてしまいます。信じてついてきた後ろ盾さえも失ってしまう。政局の中心・京都でさまざまな藩の家臣や志士と会話を重ねますが、右往左往しているだけで意味のないものと感じていきます。自分の信じた尊王攘夷思想そのものも現実的な意味を持たないというか、拠り所にならないことを知っていくのです。挫折経験、正しいと思ったことが否定される。随分と無力感とか自分自身信じていた信念や頼った人を喪失していく苦しさの日々だったように思います。

落ちていかなかった、次なる自分の行く道を見つけるヒントは他の武士にはできない自分ならではの領域を見いだすための行動だったように感じるわけです。それは農村に人材発掘に行ったり、一橋家の収入を増やすために商品作物を開発したりという自分の元々の経験を活かせるような仕事だったのです。

政治にとりつかれていたのが自分のフィールドでないことをだんだんと気づいていきました。八方塞がりの中で彼の働き場=評価されたのはやはり農民として商人としての行動がいかせた経済的な場面であることに気づいてきます。

渋沢の父がはじめた、藍という染料栽培を北関東に広め、それを買い集めて紺屋に売り込んだ経験です。そして理念よりも現実の大事さを知って、リアリストになっていく。普通の武士がこのような仕事を命じられてもとても全うできないし、そもそも中心的な仕事と捉えなかったでしょう。

渋沢はそうは考えず、精力的に取り組み逆に他人にはできない自分だけの領域が武士の仕事の中にもあることでより所を築いていきました。

②【後世の拠り所となる渡欧経験】に続く

Masakazu Shimada
1961年東京都生まれ。学校法人文京学園理事長。文京学院大学経営学部教授。経営学博士。'83年早稲田大学社会科学部卒業。'93年明治大学大学院経営学研究科博士課程単位取得満期退学。一橋大学大学院商学研究科日本企業研究センターフェロー(2009年4月~'15年3月)。経営史学会常任理事 ('15年1月~'16年12月)。渋沢研究会代表('10年4月〜)。渋沢栄一の企業者活動の史的研究などが専門。'15年、学校法人文京学園理事長に就任。文京学院大学では経営学部教授として、「経営者論」を担当。著書に、『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』(岩波新書)、『原典でよむ渋沢栄一のメッセージ』(岩波書店)、『渋沢栄一の企業者活動の研究−戦前期企業システムの創出と出資者経営者の役割』(日本経済評論社)ほか多数。


Text=山内宏泰 Photograph=渋沢史料館協力