石原慎太郎 「この国で一番贅沢な地域」湘南 PART1

住めば都とはいうがこの広い日本、というと面妖(めんよう)に聞こえるかも知れないが日本の国土の広さに案外国民は気付いていないと思われる。この細い日本列島の、北端の稚内から南端の与那国島までの長さは実はアメリカ本土の北端のナイアガラの滝から南端のフロリダのキィウエストまでの距離に匹敵しているし、沖縄は亜熱帯そして稚内は亜寒帯に属している。その中でどこが一番住みやすく洒落て素晴らしい土地かといえば、これまた人さまざまだろうが私は自分が住み慣れた湘南と信じている。

それは何といっても気候の温暖さとさまざまな便宜性、そして風物の変化の豊かさだろう。首都東京まで一時間たらずの距離にあり、しかも地域の中心には日本の三大古都の一つ、鎌倉があり、目前には黒潮の分流が洗う温暖で豊穣な海、相模湾が開けているのだから。その意味ではこの国で一番贅沢な地域といえるはずだ。

湘南の呼称の初めに湘という文字を当てた所以(ゆえん)も実はそこにある。本来ショウナンのショウという呼称は相模の国の南に当たるということから由来したらしいが、それを相ではなしに湘とした所以はこの地域の豊穣さが中国の景勝地の湖南省の湘江に因(ちな)んで先人が湘南と記したそうな。

かつては中学校の国語の教科書にも載っていた徳富蘆花(とくとみろか)がその『自然と人生』に逗子や葉山を好んで描いた訳もよく分かる。

俗に湘南とはいうが、地理的にどこからどこまでかといえば人によっては通念としてかなり広い地域といえそうだ。

百科事典には三浦半島の頸部から箱根火山の山脚部小田原一帯までを含むとあるが、私の通念としては自分が通学していた湘南中学の通学範囲葉山から小田原の手前の二宮までということにもなる。その一連の変化の豊かさからすれば贅沢さはやや劣るが湘南は日本のコートダジュールともいえそうだ。

私の通学していた湘南中学というのは神奈川県では当時の名門で海軍士官の子弟が多く、若者の憧れだった海軍兵学校への合格者が圧倒的に多かった。私の同級生にも真珠湾攻撃艦隊の司令官南雲中将の息子やミッドウエイ海戦で破れ責任を背負い、司令官の山口多聞少将とともに艦橋(かんきょう)に身を縛って自沈した艦長加来止男(かくとめお)大佐の息子もいたものだった。

しかし私の湘南のイメイジとしてはやはり私の人生の光背ともいえる手慣れたヨットの舞台としての湘南の海というか相模湾そのものを巡るものだ。そこには日本のヨットの発祥地としての葉山のハーバーから私のホームポートだった油壺を含めた海岸線の景勝も当然含まれる。

油壺は三崎の港を出て北に僅かの所に開けるリアス式の奥の深い入り江だ。その一つ手前に諸磯(もろいそ)というこれも入り組んだ入り江があり、ここも今では多くの船が舫(もや)われている泊地で周囲に幾つかのマンションが建てられてのリゾートになってしまった。

その諸磯から直角に左に折れて入る油壺は、昭和二十年代の昔には入り江の奥にクレイモアという名の外国人所有の大きなケッチ形のヨットが唯一隻舫われていただけだったが、その後この国にもオーシャンレースという未曾有のスポーツが流行しだして台風の多いこの国では格好の泊地としてあっという間に開けてしまった。

私自身も最初の本格的オーシャンレーサーの「コンテッサ二世」から「十世」にいたるまではここを泊地にしていたが、ここを起点に沖縄ヨットレースや協会の会長となって新設した小笠原ヨットレース、さらには日本から初めて外国でのレースに参加した香港、マニラレースにも長駆したものだった。

当節とは違って飲酒運転にそんなにうるさくなかったあの頃は、私が創設した月に一度のポイントレースには江ノ島や葉山のクラブからの参加艇も数多く、レース後の表彰式の後のドンチャン騒ぎには船を収めた後、連中も車を飛ばしてクラブハウスに集まり大騒ぎしたものだった。そして気の合った船のオーナーたちと計って湘南魔火矢「マヒア」組なる組織を作り、年末には温泉場まで繰り出し恐怖の魔火矢忘年会なるものをくりかえしたものだった。それをドンと称して構成していたのは早稲田のヨット会の大ボスヨット『月光』のオーナの今は亡き並木茂士、ゴルフの名解説者の岩田禎夫、そして私といったところで稚気のいたりといえばそれきりだが、当節の若者たちにはそんな遊び心もなくなったし、昔語りでそんな話をすると彼等はただ溜め息をついて羨ましがるだけだ。あれもまた湘南ならではの催しものだったに違いない。

またある時なんぞ気の合った船何隻かで寄せ合っての入り江の中でのパーティで、クルーの誰かが睡眠薬のハイミナールを沢山買い込み、チャートテーブルで潰して粉に仕立ててパンチボウルの中に混ぜ込ませてしまい、誰かがどこかで誘い込んできた外国人の若い女の子がすっかり出来上がり「ファック、ファック!」と叫んで狭いデッキの上に立ち上がりそのまま横倒しになって海に落ち込むなどというハプニングもあったりしたものだった。あれも湘南族ならぬ悪戯の故だったろう。

いずれにせよ油壺は海とヨットにかまけての私の青春を象徴するスポットだった。

その油壺の一つ北隣の小網代(こあじしろ)湾もまた湘南の奢侈(しゃし)を表象する入り江だ。今では日本では初めての本格的マリーナが出来て油壺を凌ぐヨットのメッカになりおおせたが、そのマリーナは最初はある裕福な一族が何を思い立ってかその頃としたらとんでもない思い付きで創設してくれたものだった。

小網代湾はかなり広く奥も深い入り江で、かつて昭和二十年代の頃には三、四軒の別荘があっただけだったが、今では目白押しに贅沢な別荘が建ち並ぶことになった。その先駆者の一人、入り江ではまだ三軒の別荘しかなかった頃、中でも一番贅沢な自前のポンツーンを備えた家の持ち主は野村さんという何代目かの沢瀉(おもだか)屋に似た瀟洒(しょうしゃ)な老人で、オイルメジュア、シェルの日本の代表者でいつも一緒にいた若い愛人は日本航空の初代のスチュアデスを務めた美人だった。彼がその別荘を買い込んだ経緯というのも洒落たもので、ある時湾の入り口に最初に出来ていた別荘が売りに出ているというので下見に行ったら、偶然知り合いのノリスというアメリカ人がその別荘にいたのに気付いたという。何をしにこんな所へ来たのかと問われ奥のあの別荘を買うつもりだと言ったら、あんなものよりこちらの方が車で間近に来られるからここにしろ、実は俺はこの辺りがいささか開けてきたのでそろそろ伊豆のどこかにもっと閑静な場所を探そうと思っていたのだ、お前になら安く売ってやるよ、ということで中の様子を見たら気にいったので、いくらなら売るかと質(ただ)したら、君なら五百万円で渡すよ、今なら優にその十倍もするだろうが、それでいい、よし分かった、それじゃここにしたぜ、とその場で署名して小切手を切ったらノリスがその小切手を手にしてサインしたばかりのインクを乾かしにひらひら振りながら帽子をかぶり直して家を出ていく。訳を質したら「もうここはお前の家だから俺には用がないよ、さようなら」と消えてしまったそうな。

その後少ししたら野村さんの事務所にノリスから電話がかかり、「実は、後ろの小屋の棚に仲間からもらったいろいろな酒が三百本ほどある。もらい物なので忘れていたが、仲間の物なので悪いが一本五百円でひきとってくれ」といったそうな。それから悪戯に仕掛けをしてあって、あの家の女性用のシャワールームには透かしの窓がついているのでそれを承知しておけという話だったという。その場で五百万円の小切手を切るというのも、それをもらったらすぐに家を出ていってしまう男というのも、何とも小憎らしい話で私も聞いて唸らされたものだった。

私は何故か野村さんに気にいられて、よかったら何時でも使えということで度々あの別荘を拝借して仲間たちと入り江で遊んだものだった。何しろあの家のポンツーンは習いたてのウォータースキーの離発着には絶好のものだったので、そのお陰で私の腕も格段に進歩することになった。

小網代湾に関しては私にとってもっと大切な後日譚がある。ある時ある講演旅行で知り合った森繁久彌さんを案内して行ったことがあった。野村さんの別荘の上の丘から湾を眺めながら目の前の野村邸を指差しながら昔の経緯を話したら森繁さんがいたく感心して、「んーっ、生意気、生意気」
 
唸って「よし俺もここに別荘を造る!」と言い出したので、それを遮って、
「いや、そんなことより海が好きならまずヨットを手にして乗りなさいよ」
たしなめたら、
「わかった、俺も早稲田の学生の頃、ヨットには乗ったことがあるんだよ。ならば今すぐにいい船を造ってみせる、造るとしたらどこがいいかなあ」
せっかちに言うので、
「今すぐといってもそう簡単にはいかないよ」
「いやすぐに乗りたいんだよ」
「ならば日本のヨットのパイオニアの巴工業の社長の山口さんが亡くなったので山口さんの持ち船の日本では最大の『天山』が多分売りに出ると思うからあれを買ったらどうですか」

いったら、即座にその気になって話が進み、私が仲人になって横浜のホテルでの舵棒(かじぼう)の譲渡式と相成ったものだった。

そこで森繁さんはさっそくその船で日本一周にでかけたものだった。ということで彼のヨット熱はたちまち高じてその船を乗りこなした後なんと70フィートの鉄製の「ふじやま丸」を造り、さらに病高じて湘南の佐島にヨットハーバーまで造り出したものだった。息子の一人がまさに「うちの親父はあっと思ったらパッとやっちゃうので陰では『アッパさん船長』と呼んでいるんですよ」という通りだった。

あの天下の名優をヨットと海に引きずり込んだのは正しくこの私だったのだ。

後年人気の鳥羽からのパールレースでのフィニッシュラインがコミッティーの都合で小網代湾の奥に設定されるようになり、不慣れな関西勢のために湾の入り口に多い大謀網(だいぼうあみ)をかわして無難に湾に入れるために、湾入り口近くに大きなブイを構えることになり、何かとごねては反対する漁業組合の反対を押し切ってたまたま当時運輸大臣をしていた私が裁可してブイを打たせた。ということで慎太郎ブイと呼ばれるようになり、亡き弟の記念に石原プロが造った葉山の名島脇の危険な水路を証す裕次郎灯台と並んで、私たち兄弟は我々二人のように海を愛して止まぬ仲間たちのために少しは役に立てたかなと思ってはいる。

小網代湾を過ぎるとその先に森繁さんが佐島マリーナを造った佐島を抱える広い小田和湾がある。この湾の奥にはかつて日本海軍の兵員養成のための海兵団基地があった。そのためにか湾の南側には戦闘機が離発着出来る小型の飛行場まであったそうな。

そして湾に入る手前には亀木の大暗礁が控えている。この暗礁にはあちこちに本礁から離れた隠れ根があって潮の満ち干によっては近くを通る船は油断ならない。油壺から葉山沖のブイを回って帰るポイントレースで欲張って近道を狙って入る船はよくキールをぶつけたものだった。

ダイビングを始めてから念のために亀木の暗礁で潜ってはみたがだだっ広く平たい暗礁は意外につまらなく魚を寄せずにやたらにカジメばかりが生い茂る退屈なものだった。この暗礁には昔その所在を告げる波に乗って鳴る大きな鐘が繋がれていたが、ある年につよい台風で引きちぎられて消滅し代わりに今では背の高い灯台が建てられてはいる。

温暖な湘南の海とはいえ、亀木に似た物騒な暗礁はあちこちにあって亀木からさらに北に進めば葉山の長者ケ崎の手前には尾ケ島の暗礁群があり、こちらは魚の姿が豊富で夏場はカヌーの愛好者たちの絶好の海のリゾートとなってもいる。そしてさらにその先には茅ヶ崎の烏帽子岩の大群、その手前には陸から離れた巨大な海の障害物としての、江戸時代からの景勝地江ノ島がある。

江ノ島の神社の御本尊は弁天様でその御神体は裸で琵琶を弾くかなりセンシュアルな仏像だそうだが、御開帳があるのかどうかともかくも昔からの名所で、それに因んでか歌舞伎の名狂言『白浪五人男』の内の一人「弁天小僧菊之助」は江ノ島の岩本院の稚児上がりということになっている。

日本人の悪い癖の一つで、誰が言い出すのか目立つ所に高い塔を造りたがるが、江ノ島にもいつか塔が建てられせっかくの景観をぶち壊しにしてしまった。それが何時の間にか灯台となり、我々ヨット乗りには夜間の航海には有り難くもあるが、私としては子供の頃、北海道の小樽から引っ越してきて初めて眺めた後ろに富士山を控えた江ノ島の、本土ならではの優美な姿の方が懐かしくもある。

湘南の中核的な古都鎌倉に史跡が横溢(おういつ)しているのは当たり前のことだが、鎌倉に幕府を開いた頼朝政権に関わるある歴史書の『吾妻鏡(あづまかがみ)』はある意味では陰惨な権力闘争の歴史書だ。それを暗示する遺跡が鎌倉の南の逗子や葉山よりさらに南の秋谷の少し山奥の子安の里というかつての落人村落としてある。最近新規に出来た山の上の湘南国際村なる大袈裟な施設のために出来た贅沢な道路を下って海に出る途中に、山の湧き水の流れる細い流れに沿った集落がある。「妙薬の湧水」なる泉もあるが一帯の景色は昔なんでこんな所に人が住み着いたのかと思われる不便極まる地形だが、頼朝が死んだ後の権力闘争の煽りで三浦・三崎を根城に権力を誇った三浦一族の中での権力闘争に破れた連中が追っ手を逃れて隠れ住み着いた跡だそうだ。私もある人から聞かされ湘南国際村の贅沢なプールに泳ぎにいったついでに訪れてみたものだが、あまり訪れる者もないこれは何とも摩訶不思議な雰囲気の辺りで、なまじな古い建物なんぞよりも昔の暗い歴史を肌で感じさせられる、ある意味では不気味な一角だ。

ここだけではなしに天皇の別荘のある葉山の一つ手前の長者ヶ崎という小さな峠の辺りは断層と断層がぶつかり合った不安定な地形で昔から「大崩れ」とよばれていた所で、かなり昔の話だが、道路を開通させるために掘っていたら地中から鎧を着たままの侍の遺体が出てきたそうな。

葉山は皇室が東京から最寄りの別荘地として選んだだけに絶好の避寒地だと思われる。中でも真名瀬の海岸の上にそびえていた高橋是清の壮大な別荘は子供心にも下から眺めて圧倒されるようなもので、そこには高橋の孫にあたる絶世の美女が住んでいるという噂を裏付ける印象的なものだった。

葉山に並んで隣の逗子もまた戦前には財閥や著名な文人の避寒のための別宅が沢山あって、父が小樽の支店長から本社の総務部長となって小樽から逗子に転勤してきた時あてがわれた住まいは山下汽船の社長の別荘だった。

そして聞いたところ近くにはなんと徳富蘆花や新派の名狂言『婦系図(おんなけいず)』の作者泉鏡花の書き物のための住まいもあったそうな。

(PART2に続く)

Photograph=内田裕介

*本記事の内容は16年7月取材のものに基づきます。価格、商品の有無などは時期により異なりますので予めご了承下さい。 14年4月以降の記事では原則、税抜き価格を掲載しています。(14年3月以前は原則、税込み価格)

石原慎太郎
石原慎太郎
Shintaro Ishihara 1932年神戸市生まれ。一橋大学卒業。55年、大学在学中に執筆した「太陽の季節」により第一回文學界新人賞を、翌年芥川賞を受賞。ミリオンセラーとなった『弟』や2016年の年間ベストセラー総合第一位に輝いた『天才』、『法華経を生きる』『老いてこそ人生』『子供あっての親-息子と私たち-』など著書多数。
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