【大相撲のブランド学③】昭和天皇が40回も国技館にご来場された意味

1300年以上もの歴史があると伝えられている相撲。その日本国有の競技は、単なるスポーツという枠にとどまらず、神事、文化、興行として長きにわたり守り抜かれ、今なお観客動員数やテレビ視聴率において抜群の人気を誇り続けている。壮大なる大相撲ブランドは、いかにして作られてきたのだろうか。相撲ジャーナリストの荒井太郎氏が3回にわたり、その秘密を解き明かす。

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権力者を味方につける抜群の嗅覚

大相撲というブランドは、地球上で唯一無二の存在を武器に他のプロスポーツのみならず、世界のありとあらゆるエンターテイメントにも決して引けを取らないコンテンツ力と、伝統文化や神事を背景としたどこか曖昧ではあるが妙に説得力を持った、壮大で深遠なストーリーが織りなす演出装置を多く有していることにより、その価値を高めてきたことはすでに述べてきた。

悠久の歴史を持つ日本の国技である相撲。現在の大相撲興行の原型となった江戸勧進相撲が始まってからでも250年以上が経つ。数ある日本の伝統文化の中には時代の波に飲み込まれ、廃れたり風前の灯火にあるものも少なくないが、大相撲は令和の時代の今も老若男女から愛されている。しかし、今日の地位を築くまでの道のりは決して平坦ではなく、幾度となく存亡の危機に直面しながらも抜群の嗅覚を発揮してその時代の権力者を味方につけ、生き永らえてきた。この危機察知能力に長けた生命力もまた、前述した2つとともに大相撲ブランドを支えてきた根幹をなすものだ。

「国技館」という抜群のネーミングセンス

相撲は歌舞伎とともに江戸庶民最大の娯楽であったが、明治維新を迎えて欧米から最新の制度、思想、風習などが流入すると一転、世間からは野蛮で前近代的だと貶められ、相撲無用論まで飛び出した。そこで東京相撲会所は東京警視庁トップに願い出て力士消防別手組を結成。生き残りを懸けて消防活動に奉仕で従事し、相撲存続を暗に訴えた。こうしたアピールは一定の効果をもたらし、さらに明治17年に浜離宮延遼館で行われた天覧相撲が大きな転機となり、相撲無用論は一掃され人気は回復していく。ちなみにこの天覧相撲は内務卿の伊藤博文の働きかけによって実現したと言われ、伊藤が贔屓にしていた梅ヶ谷は直前に横綱免許を受け、明治天皇の御前での横綱土俵入りが初お披露目となった。

これをきっかけに大相撲の社会的地位は向上し、相撲人気は黄金期を迎えることになる。すると雨が降れば順延となる野天興行から天候に関係なく興行ができる常設館建設の機運が高まり、やがて板垣退助の尽力もあって常設館は完成した。「常設館」とはあくまでも仮の名称で正式名称を決定するにあたり、板垣は「尚武館(しょうぶかん)」を提言するが採用されず、小説家の江見水陰が草稿した初興行披露状の中の「角力(すもう)は日本の国技」という文言から「国技館」と命名された。

明治42年6月、国技館が開館したのを機に相撲は「国技」を名乗るようになった。当時の情勢からして剣道こそがその座に収まってもよさそうなものだったが、相撲=国技という認識は自然な形で国民に共有されていく。現在、日章旗や君が代は日本の法律でそれぞれ国旗、国歌と定められているが、相撲が国技であるという法的根拠はなく、当時の相撲協会がいち早く名乗ったことが、のちの繁栄に大きく寄与したことは間違いないだろう。

天皇賜盃の重さ

さらに大相撲のステータスを揺るぎのないものにしたきっかけが大正14年4月29日、摂取宮殿下(のちの昭和天皇)のご誕生日に赤坂東宮御所で行われた台覧相撲だった。この日、大の相撲好きだった殿下から御下賜金があり、東京の相撲協会はその用途として摂政宮盃(のちの天皇賜盃)の作製を決定し、これを本場所の優勝者に授与することになった。関東大震災による財政難に陥っていた東京の相撲協会は苦境を脱するため、これを機に皇室との関係強化を画策した結果、同年12月、財団法人大日本相撲協会の設立が認可された。

また、御下賜金による優勝盃の栄誉を東京の相撲協会だけで独占すべきではないという気運がかねてからあり昭和2年1月、大阪協会との合併が実現し、大日本大角力協会が発足した。現在の公益財団法人日本相撲協会の前身である。

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大相撲の運命を大きく左右させた昭和天皇の存在

ところで、80年以上の歴史がある日本のプロ野球における天覧試合は昭和34年6月25日、後楽園球場で行われた巨人対阪神戦が後にも先にも一度きりなのに対し、天覧相撲は陛下が初めて国民とともに本場所をご観戦されるようになった昭和30年夏場所10日目以降からでも60回以上を数え、そのうち昭和天皇は40回も国技館にご来場されている。昭和天皇が根っからの大相撲ファンだったことが、大相撲の命運を大きく左右したような気がしてならない。

このように、“お上”の庇護を受けて難局を乗り越えるという発想は、相撲史始まって以来であると見て取れる。終戦直後の昭和20年11月場所、相撲協会は土俵をそれまでの15尺から16尺に広げたこともあったが(力士から不評で1場所でもとの15尺に戻った)、これも日本で占領政策を推し進めるGHQの意向を汲み取ったためとも言われている。

令和元年夏場所千秋楽、トランプ米大統領と安倍首相の両夫妻が大相撲を観戦した際、協会は迅速かつ異例な対応でもてなしたが、歴史的経緯に鑑みれば、何も驚くことではないだろう。

Taro Arai
1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に寄稿、連載。およびテレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。女性向け相撲雑誌『相撲ファン』では監修を務めるほか、相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。



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