母親を失った欠落感を人はどう癒すのか? 【『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』】

2月22日公開の『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』は、本ウェブの連載『ジブリ童貞のジブリレビュー』の宮川サトシさんによる自伝エッセイ漫画を映画化した作品。監督・大森立嗣と俳優・安田顕による感動の実話だ!


死という不条理を前に男は情けなく、女は賢く強い

人間が体感する時間は、年を重ねれば重ねるほど加速すると言われている。大人は1年をあっという間に感じるから、見るのは先のことばかり。だが先を考えない子供は今だけしか見えないから、翌日の体力を温存など考えずに全力で遊び、「トイレに行きたい」気持ちも前もって早めに申告してはくれない。逆を言えば、大人が見据える未来を、子供は想像できない。両者は生きている時間が違うのだ。映画「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」を見て、そんなことを思った。

物語は主人公サトシとその母親の関係を、コミカルに描いてゆく。小さな田舎町で塾を営むサトシは、そろそろ中年という年齢ながらどこか頼りない末っ子次男坊。パワフルな母親はそんなサトシをいまだに子供のように可愛がっている。それはサトシが幼いころに大病を患ったせいもあるだろう。当時の母は「サトシは絶対に死なない」と言い切って、もてる力のすべてを注いでそれをやりとげた。その愛情には、ただただ頭が下がる。

母親の癌の発覚と2年という余命宣告は、そんな母息子にとって青天の霹靂だ。サトシは激しく動揺しながらも、かつての母親に倣い全力の前向きさで治療に没入、母が身辺整理でも始めようものなら「生きる気があるの?!」と叱責し、母の思いを汲み取ろうともしない。母の死を受け入れることを絶対的に拒絶するサトシの在り方は、どうしようもなく子供っぽいのだが、それでも胸を打つ。十月十日を母の胎内で過ごし、そこから切り離されることで生まれた誰もが、無意識下に「かつて自分が母の一部であったこと」を思い出すのかもしれない。母の死に足元がぐらつくような不安を覚えるのは、自分の一部が切り離されてしまうことへの恐れにも思える。だがもちろん、死は避けようもない。

死という不条理を前に、サトシは徹底してなさけない。オロオロとうろたえ、シュンとし、ボヤき、黙り、立ち尽くし、暴走し、大声でわめき、そしてなぜか脱ぐ。ことに映画がそれなりの長さを割いて描く母の死後が秀逸だ。多くの映画は「死を受け入れること」を一定の解決のように描くが、たとえ受け入れたとしても、誰かの不在がもたらす欠落感は消すことはできない。遺骨を前に心穏やかに見えるサトシが衝動的に遺骨を食べようとする、そうとう奇異な行動はその如実な表れでもある。彼はその欠落を前に、ダメな自分を晒して晒して晒しきることで、やがて自身を取り戻してはゆくのだが、それでも欠落感は癒されない。母の不在に単に慣れただけなのだ。

これに対し女たちは賢く強い。命の限りを覚悟しながら笑顔を忘れず、死に際してすべきことをし言うべきことを言う母。そしてそんな母の思いを唯一汲み取るサトシの恋人・真里もまた、ここぞという場面でサトシの尻を――時には蹴とばすくらいのレベルで――きっちりと叩く。極めつけは、母親がその真里に託した「ある計画」だ。それによって、ラストにはもういないはずの母の存在が、サトシのもとにくっきりと一つの形をもって蘇る。

多くの観客が心底驚かされるであろうこの展開は、母は息子の想像しえない未来を最初から見ていたことを物語る。そしてそれは間違いなく、息子をこの先もさらに成長させ続けるに違いない。さらに驚かされるのは、この奇跡の大団円が実話であることだ。自身にもいる親、その愛と存在の大きさに、思いを馳せたい。


©宮川サトシ/新潮社 ©2019「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」製作委員会
『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』
心優しいがゆえに頼りないところがある息子・サトシと明るくてパワフルな母親・明子。そんな平凡でユー モラスな宮川一家の日常は、母へのガン宣告によって一変する。サトシは母のために奔走したが、非常にも母との別れが訪れた。その1年後、突然、母からプレゼントが届く。そこには母から息子への深い愛があった。
2019/日本
監督:大森立嗣
出演:安田 顕、松下奈緒、村上 淳、石橋蓮司、倍賞美津子ほか
配給:アスミック・エース
2月22日より全国順次ロードショー


『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』
宮川サトシ著
新潮社 ¥1,000


Text=渥美志保